ushibutatorism

がんばって言語化するぞ(カテゴリごちゃ混ぜです)

【オリジナル曲】序曲

動画

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使用したツールなど

  • MIDI作成
    • Studio One 5
    • domino
      • Studio OneでMIDI保存すると、すべてのトラックがチャンネル1に割り当てられてしまうという事象が起きていて、調べても解決できなかったため、以下のようにしている。
        1. Studio Oneで作曲、MIDIで保存
        2. dominoで開き、チャンネルを指定
        3. dominoから改めてMIDIとして保存
      • めんどくさい。
    • 使用したサウンドフォント
      • SGM-V2.01

他は大体と同じ

所感(?)

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ビデオプロジェクトで動画編集する際、上記ボタンから撮影した動画を追加し、トリミングやテキスト編集を行ったりするのだが、[ このPCから ] 動画を選ぶと音声が消える事象が起こる。 [ コレクションから ] 動画を選ぶと、音声が消えることなく正常に取り込める。

ちゃんとした動画編集ソフトを使ったほうがいいのかもしれない。

【オリジナル曲】ゲームの神殿とかで流れてそうなやつ

動画

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使用したツールなど

所感

動画作成について

曲自体は大学生か新卒の頃に作ったものです。ドライブを整理していたらMIDIデータが出てきたので動画にしてみました。

こういった動画を作成するのは初めてで、色々分からないことを調べながらでしたが、とても楽しかったです。

また、動画サイトへの投稿も初めてしました。思ったよりもお手軽にできるんですね。すごい時代だ……。

作曲について

最近あまりできていなかったけれども、作曲の勉強を進めながらまた色々作っていきたいです。

ミスタはなぜギアッチョのジェントリー・ウィープスの銃弾を跳ね返さなかったのか

ジョジョ5部の話。

サンタ・ルチア駅前でミスタとギアッチョと闘った際、ミスタの放った銃弾は、ギアッチョのスタンド『ホワイト・アルバム ジェントリー・ウィープス(静かに泣く)』が作り出した凍った空気の壁に悉く弾き返される。

覚悟を決めたミスタはそれらの銃弾を全身に浴びながら、それでもギアッチョへの追撃をやめないのだけど、長年、「 どうして弾かれて戻ってくる銃弾をピストルズが再度撃ち返さないのか? 」が疑問だった。

改めて当該のエピソードを読んで、その理由を少し考えてみた。

仮説1: ピストルズは、ミスタ自身が発射した銃弾しか操れない

最初はピストルズの能力を「ミスタ自身が発射した銃弾を、ごく短い時間(着弾するまで)コントロールする能力」かと思ったが、サーレー戦で一度停止・ミスタ以外の人間が再発射した銃弾を撃ち返している。

なので、この仮説1はおそらく誤りである。

仮説2: ピストルズは、どこから飛んでくるか分からない銃弾は操れない

回想エピソードによると、ミスタには『静かなる集中力』がある。

それを銃口の向きや相手の視線から正確に弾道を読む、という才能だと解釈し、その「読み」の才能が「読み、かつ操る」という異能力として発現したのがピストルズだと仮定すると、サーレー戦で再発射された銃弾を正確に弾き返し(ただし不意打ちで放たれた銃弾はガードできず腹を貫通している)、ギアッチョ戦でランダムに返ってくる銃弾を弾き返せなかった理由になる気がする。

つまり結論ッ! セックス・ピストルズは「ミスタ(或いはピストルズ達)が数と弾道を認識・把握している銃弾をコントロールする能力」なんだ!

どーだ!? オレの考えたこの意見ッ!

※あくまで私見です。

祖父のバランス論を自分なりに再解釈する

母方の祖父から教えられたことの一つに『バランスを取りなさい』というのがある。

例えば、

  • 「土の上に生る野菜と、土の下に生る野菜を両方食べろ」
  • 「海のものと山のものを両方食べろ」

食べ物の例えばかりだった(私が幼かったからそういう例えを選んだのかもしれない)のだが、「何事においてもどちらかに偏るのはよくない、両方のバランスを取るようにすると自然とうまく行くように"できている"」というのが祖父のバランス論だったように思う。


最近それなりに私も歳をとってきたので、改めて解釈し、自分なりの言葉にしてみようと思った。これはそういう記事。

「線」を引こう

まず、この世界のあっちとこっちを分ける「線」を引こう。

上記の例を見てもらえば分かる通り、その線の決め方はまったく主観的でよい。
科学的根拠や医学的な見解などはまったく必要ではない。科学的でも非科学的でもよいし、もはやただの言葉遊びでさえあってもよい。 2つに分けるのが難しければ3つに分けてもいい。

他人に説明してご納得いただく必要はないし、指摘を受けたからといって訂正する必要もない。議論も不要だ。
自分だけで勝手に決めて、自分だけが納得していればよい。

「両方」のバランスを取ろう

世界に自分だけの線をひいて、しかし片方に偏ってはならない。その偏りは様々な争いと災いの種になる。

世界をあっちとこっちに分けた後は、その「両方」をよく見て、学び、触れよう。
もしかするとほんの少しどちらかに偏るほうが心地よいかもしれないけれども、もう一方を完全に排除しよう・否定しようとしてはならない。

世界をあっちとこっちに分けた理由は、敵と味方を作って争うためではなく、世界の真ん中でバランスを取り健やかに歩むためであるからだ。

まとめ

祖父のバランス論は、何かと何かを両方バランスよく行うという意識であり、ただの抽象的なフレームワークに過ぎない。

世界の境界線は自分で決めてよい。
ただし、その境界線の両方のバランスを取らなくてはならない。

  • 「勉強と運動を両方同じぐらい頑張る」
  • 「国語と算数を両方同じぐらい頑張る」
  • 「室内で過ごしたら屋外でも遊ぶ」
  • 「1時間ゲームしたあとは、1時間読書する」
  • 「会社の人とお客さん、どちらとも同じ回数、食事に行く」
  • 「先輩と後輩、どちらの意見にも耳を傾ける」
  • 「カバンは右肩と左肩で交互に持つ」
  • 「肉を食べたら野菜も食べる」
  • 「パンと米を日替わりで食べる」
  • 「牛、豚、鶏をバランスよく食べる」

(……すぐ食べ物の例え話ばかりになってしまう)

「バランスを取れ」というのは「世界をよく見て、自分の中に基準を持て」ということなのかな、と思った。